Profile

河端宏和 - Hirokazu Kawabata

 

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1979年生まれ。2児の父。現在アメリカ在住。
幼少期は父の仕事の関係で数年おきに転勤を繰り返す生活が中学生まで続く。いったん石川県に腰を据えるが今度は大学進学や就職で1人で転々とするようなる。 同じ場所にとどまることができなくなってしまったようだ。

その後、上場企業への転職、結婚、マンション購入、長男誕生と一般的な幸せをひと通り手にした気になるが、親友の突然死と東日本大震災が立て続けに起こり、人生を見つめ直す。

2013年、再度転職しアメリカ中西部の小さな田舎町に家族と共に移住。仕事、言語、文化、考え方、すべてが新しい環境の中で自分の可能性、家族の大切さを改めて実感。そこで得られた経験が私を大きく成長させる。

2016年、これでいいのか、これが最高の人生なのかと自問自答を始め、自分の考えを整理するために本ホームページ制作をスタート。少しづつ見えてきた理想への実現に向けて現在準備中。

 


 

今ここに生きる幸せとその可能性、そして家族の大切さ。

当たり前だと思っていることは当然でも必然でもない。

全ては自らで選んだことの結果であり、自分の財産である。

かけがえのないこの財産をどう守るか、どう増やすか。

改めて考え直し、もう一歩先へ進む。


 

なぜこんなことを考え、感じるようになったのか。そして自分は本当にその意味を理解しているのか。正直、まだはっきりとつかめていないのかもしれないが、挑戦を繰り返し自分のできることを少しづつ進めることがその方法であることは確かである。

 

 

- 転機 -

全ての始まりは2011年だった。そう、東日本大震災。そして私の場合はそれにもう1つ加えて友人の突然の病死。今まで当たり前だと思っていたことが一瞬でなくなり、後に残ったものは悲しみと後悔。しかし過ぎ去った過去は戻せず今日という日はいつもと変わらないスピードで進んでいく。ただそこに立ち止まっているだけでは存在している自分でさえも明日を見失ってしまいそうであった。今日が明日をつくり、その積み重ねが人生となる。改めてそれを実感し、現状を見つめ直す転機となった。

震災のあった2011年3月11日の出来事は今でも鮮明に覚えている。

その当時の私は自分の人生に幸せを感じ満足していた。上場企業へ転職して数年が経過し少しづつキャリアを積み重ねて社内でも多少の評価を得ていたし、私生活では結婚して都内にマンションを購入し長男も誕生していた。一般的な幸せは一通り手にし、あとはこれを保ちながらちょっとづつ上を目指していけばいけばいいと思っていた。そんな時に東日本大震災が起こった。

地震直後、会社でいつも通り業務をおこなっていた私は育児休暇中で家にいた妻に電話で安否を確認した後、会社からの帰宅命令が出たから家へ帰ろうという安易な考えしかなかった。しかし事態は想像以上に深刻であった。会社最寄り駅の立川駅に着くと全てのJRが運休、駅周辺は大勢の人でごった返し、駅前の大型スクリーンには東北の悲惨な状況が映し出されていた。映画のワンシーンを見ているようでとても信じられなかった。東京は大丈夫なのだろうか。とにかく家に帰らなければ。家には妻と生後4カ月の長男が待っている。ただその手段がなかった。電車でも30分以上かかる荻窪駅まで道のり。駅前のタクシー乗り場にはタクシーは一台も見当たらないが100人以上が並んでいる。バス停も人だかりでごちゃごちゃだ。徒歩でも帰れるが4時間近くはかかるだろうから最終手段として後回しにした。

そこに留まって人ごみに埋もれていては何も進まない。人とは違う行動が必要だった。

その時、多摩モノレールが走っているのが見えた。でもそれもいつ止まるか分からない。瞬時に行動を起こした。モノレールに飛び乗り終点の上北台駅を目指す。目的は新青梅街道だ。この道路は山梨県から新宿まで続く大動脈青梅街道のバイパス道路であり、荻窪はその青梅街道沿いに位置する。そこで走っているタクシーを捕まるのが1番目の作戦、それがダメならヒッチハイクだ。駅についてすぐに近くのコープへ走り段ボールをもらいマジックを借りて「荻窪方面」と大きく書いたボードを作成。次に交差点に立ちタクシーを探しながらも、作ったボードを掲げてヒッチハイクをおこなう。赤信号で止まった車には遠慮なくアピールし続けたが30分が経過してもだれもドアを開けてはくれなかった。薄暗くなり始め気温が下がってきた。暗くなってしまえばボードも見えなくなりヒッチハイクは諦めるしかないと考えていた。

と、その時10メートル程先で車が路肩に停車した。思いっきり駆け寄ると愛想のいいお兄さんが窓から「後ろに乗りなっ!」って言ってくれた。体の力がふっと抜けた気がした。会社からの帰り道と聞いたことは覚えているがその他の会話は思い出せない。荻窪の3つ手前の三鷹駅まで乗せてくれ、その人と別れた。ここからは徒歩圏内だ。30分ほど歩けば家まで帰れる。線路に沿った道を無心で突き進む。辺りはもう真っ暗で街灯が少し先の道を灯す。気付くと同じ道をたくさんの人たちが歩いている。みな同じ状況なのだ。ところどころで脇道に入っていく人がいる。家が近いのだろう。そして私もついに帰宅。妻と息子の姿を見て心が熱くなったことを覚えている。

この1日で本当に多くのことを経験し学んだ。

 

 

 


 

いま見えている世界が全てではない、自由に変えられる。

必要なものは創造と挑戦、たまには冒険で新しい道の開拓を。

失敗も成功もその過程も全てが次へとつながる経験となる。

そんな経験を積み上げて自分にしかない人生を表現していく。


 

メディアで目にする世界は部分的に切り取られたものであり、1つの目線から創り上げられたものに過ぎない。自分で実際に体感し確かめてリアルを感じる、それが生きるということであり人生を楽しむということなんだということ知ったのは初めての海外旅行がきっかけでした。

 

社会人になるまでは海外に全く興味はなく、パスポートすらなかった。もちろん英語が話せるわけもなく、海外旅行など考えたこともなかった。しかし、海外の魅力を知る現在の妻に出会い初めて日本を離れた。この一歩が現在までの自分に大きく影響を及ぼし続けていることは明白な事実である。

初めての海外旅行先はタイ。現在の妻との旅行だった。なぜタイだったかというと、安いパッケージツアーを見つけたから。そして彼女がまだタイへ行ったことがなかったらだ。正直言って私にとって行き先はどこでも構わなかった。

そしてその旅行の感想はというと・・・、衝撃を受けた!!

言語や外見の違いだけではなく、街の匂い、生活、環境、考え方全てが異なり、今までの常識や概念がいとも簡単に崩された気がした。幼い頃から日本国内を転々としていて新しい環境との出会いは慣れていたつもりだったが比べものにならなかった。帰国後、海外に対する欲求が抑えられないほどに興味が増した。そして立て続けにベトナム、韓国、インドネシアを訪れ、次々と新しいものに触れていった。たった4ヵ国、それも全部近場のアジアでそれぞれ数泊程度の旅行しかしていないのにこの影響力。世界はすごい。今までの自分の視野がいかに狭かったかを思い知らされたし、見えていなかった新しい可能性も見えてきた。自分は健康体だし、仕事や人間関係なんかに悩んだりもすることもあるが生活に何ら不自由した経験もない。こんな当たり前だと思っていたことに改めて感謝する。

 

 


私はこれらの出来事を通して考えをリセットすることができ、2013年に新たなスタートを切れた。職を変え、マンションを売却してのアメリカ移住。以前の自分なら考えもしなかっただろう。なぜなら、私は人と比べて秀でた才能や技術は持ち合わせていないし、お金やコネも特にない。人とは違う特別なことなど想像できなかったから。でも違った。タイミングと運、そしてその気があれば進める。もちろんそこからが大変だったりするが新しい道は発見と出会いの連続で刺激的であり意外と平気だったりする。

私にとって今の道は4年目に差しかる。分岐点が近づいているのだろう。慎重に周りを見回しながら方向とタイミングを見定めているのが現状である。

さて、次の冒険はどうなるだろうか。

 

2017/01/11